ミテイルセカイヲシンジルナ

ある方法論を学んでいるとき、その効率性や便利さに感嘆するとともに、ある種の不安感を覚えることがある。それは、その方法論以外の手段という可能性を捨てる、という不安感である。

これは言語にも当てはまる。何故ならば言語は思考の方法論であるからだ。例えば日本語は英語よりも語彙が多いと言われる。少しばかり前に流行った「もったいない」ということばは、どうやら英語にはないらしい。そのため欧米人は「もったいない」という思考には日本人ほどいたらない。他にも、よく言われるような日本人と欧米人の性格の違いは、言語の違いから来ると言われることもある。

ここで怖いのは、「言語」という知らないうちに身につけたものによって、思考がある種の制約に囚われてしまうということだ。そして、これは「常識」という概念にも当てはまる。大人になればなるほど「常識」は身体に根ざし、さも当然であるかの如く振舞う。それは確かに当然であるのだが、それが怖い。人間の可能性はある種の制約に囚われているということになる。ガリレオは、当時常識であった天動説を疑い、地動説を主張することで未来の可能性を示した。

今回のコラム、「常識にとらわれるな」という非常にベタなテーマであるが、敢えて言いたかった。一歩立ち止まって、もう一度目の前の「常識」を見つめ直すこと、それが未来を作り出す。(taxpon=ITエンジニア)