誰の為の人生か?

 自らの恥を晒すようで恐縮だが、この春から見事に就職試験に落ち続けている。何百社エントリーし、何十社面接を受けただろうか。そんな私に周囲の方々は「こんな時代だから仕方ないよ」と気遣ってくれる。そのたびに就職が決まらないことをひどく申し訳なく思うのだが、率直に言って私が就職できない原因は社会状況や時代のせいでは決してなく、私自身の問題だと思っている。 その証拠にこのような時代でも内定をもらっている人間はいるのである。
 私が軽蔑する人間の種類に、全てを「社会」や「国家」や「家族」に責任を転嫁する人々がいる。 俺がこうなったのは俺のせいじゃない、と自らの不幸せを社会のせい、企業のせい、もしくは家族のせいと他人に責任を転嫁し、自らを全く省みようとしない人間である。一部の文化人や学者は、彼らを「ゆがんだ社会構造の犠牲者」と論じたがるが、私は決して同意しない。
 もちろん、全てのことが自分の意思で選択できるわけではない。時代や社会や国家によって翻弄される側面も決して小さくないだろう。しかしながら、それはどんな人間でも同じであり、与えられた資源や制約のなかでいかに生きていくかが人生の醍醐味ではないだろうか。少なくとも私は誰かのせいにするような人生だけは生きたくはない。就職できようができまいが、私の人生は私の人生である。(J=大学院博士課程)